俳優の菅原文太さん 死去

高倉 健さんに続き 菅原 文太さんが亡くなられました
私の住んでいた麻布のマンションの裏に俳優の奥田瑛二のマンションがあり、
その隣のマンションに文太さんが住んでおられました。
私が上京した頃ぐらいに、違うところへ引っ越されたと聞いたので
一度もお会いすることはなかったのですが、田舎から出てきた私は
そうかぁ~ こんな近くに文太さんが住んでいたんだって、ずっと記憶に残っておりました。
なんと言いましても、人生ってのは魂の修行の場、
現世で どのレベルまで己の魂を高め
人と社会に接していけるかだと私は思いますので、晩年から有機野菜農業をされだし
東日本大震災をきっかけに俳優業を辞められ、脱原発活動をされていたことは
本当に尊敬に値する方でした。
心より ご冥福をお祈りいたします

https://www.youtube.com/watch?v=6lU836djAo8
https://www.youtube.com/watch?v=bqd3PHqYiCQ
映画「仁義なき戦い」、「トラック野郎」シリーズなどの作品で知られ、昭和の映画界の最盛期を支えた日本を代表する俳優の菅原文太さんが、先月28日、転移性肝がんによる肝不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。
81歳でした。
菅原さんは仙台市で生まれ、雑誌のモデルを経て昭和33年に俳優としてデビューしました。
昭和48年に第一作が公開された深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」で自分の信念を貫き通す、すごみのあるヤクザを演じて強烈な印象を残し、一躍トップスターになりました。
また、昭和50年からは「トラック野郎」シリーズで恋愛に不器用で義理・人情に厚い「一番星」という愛称のトラック運転手を演じ、人気を集めました。
その後も「太陽を盗んだ男」や「ビルマの竪琴」など数多くの映画に出演したほか、NHKの大河ドラマ「獅子の時代」や「利家とまつ」などテレビでも存在感のある演技で親しまれました。
さらに菅原さんは、平成13年に公開された宮崎駿監督のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」で初めて声優にも挑戦しました。
徐々に俳優の仕事を減らしてきた菅原さんは、農業に力を入れ、平成21年には山梨県に農業生産法人を設立し、有機農業に取り組んだほか、都会を離れ地方で生活しようという人を支援するNPO法人「ふるさと回帰支援センター」の顧問として地方で生活する魅力を紹介する活動などを続けていました。
また、東日本大震災のあとは、原発事故など、日本が置かれた現状に心を痛め、俳優の引退を決めたうえで、脱原発を呼びかける活動や、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に反対する集会に参加するなど、社会的な活動にも力を入れてきました。
菅原さんは、平成19年に膀胱がんを患い治療を受けていましたが、先月28日の午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。
葬儀は、30日、福岡県内で家族のみで行われたということです。
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小さな種蒔いて去りました

俳優の菅原文太さんが亡くなったことを受け、妻の菅原文子さんは「七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』の心境で日々を過ごしてきたと察しております。『落花は枝に還らず』と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます」とコメントしています。
文子さんのコメントの中にある「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」のことばは中国の古典、「論語」に由来するもので、「人として大切な道徳を悟ることができれば、すぐに死んでも後悔はない」という意味です。
また、「落花は枝に還らず」は「ひとたび散った花は再び枝に戻らない」という意味で、「死んだ人は再び生き返らない」ことを例えています。
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